今週のこの指とまれ!

【街を舞台に『災害』をテーマにした公演 ー「来たぞ!」ー】

◾️企画背景
先ほど、朝のベーコンエッグを作っていると、居間のテレビからハザードマップのCMが聞こえて来た。「何かあった日のために知っておいてほしいものがあります。ハザードマップです。」っけ、つまらん、CM作りやがって、とジュージュー焼ける卵とベーコンに向かって悪態をついていると、思いついた。
「災害」をテーマに街で演劇を上演すればいいんだ。

◾️企画概要
これは避難訓練のエンタメであり、芸術作品である。エンタメには「ワクワク」、芸術には「忘れ去られた葛藤」という側面を託している。
何の変哲もない、休日の昼下がりに「災害が来た」という設定である広場に集まる。設定は臨機応変に「バイオハザード」や「台風」「地震」「津波」など災害を設定する。ハザードマップに指定されている、避難所が目的地。避難所に到達するまでにクリアしなければならないミッションがあり、それを「演者」である仕掛け人が仕掛ける。参加者はとにかく全てのミッションを達成したり、しなかったりし、避難所に到達しなければなならない。正解はない。「生き延びる」ことだけが正解です。

東日本大震災の時に、「津波でんでんこ」という言い伝えがまた広まりました。津波てんでんことは「津波が起きたら家族が一緒にいなくても気にせず、てんでばらばらに高所に逃げ、まずは自分の命を守れ」という意味です。津波がくるにも関わらず、家族を待ったことにより波に乗られた人がいたのです。この言い伝えなどをもとに実際の有事の際に役立つような実践的な仕掛けを用意します。

小学生などには「ゾンビ」や「モンスター」というエンタメの設定でも楽しめるようにし、中高生や大人にはよりリアルでハラハラする設定を盛り込む。参加者以外の大人は「演者」として各ポイントにいる。小学校の野外体験の時のウォークラリーで先生が各中継地点に立っていた時みたいな感じ。そこでいろんな展開を演者から参加者に仕掛ける。「あそこで人が倒れている。手を貸してくれないか?」助けていると別の大人がやって来て「こんなとこで何やってるの!早く行かないと!」「でも!」と助けられなかったり、残ったりする子が出て来てもいい。そこで問われるのは「どうありたいか」ということ、危機的状況に陥った時、人間は自分の本性と向き合わなければならない。そこには必ず葛藤が生まれる。その葛藤をいくつ抱えて死ぬことができるか、それが人生の醍醐味と言い換えることができるかもしれない。資本主義社会が発展し、家族の解体が進み、我々は「人の死」に触れる機会が圧倒的に少なくなってしまった。「死」という日常の出来事を演劇では身近に擬似的に起こすことができる。それを鑑賞するのではなく、そこに参加する、という枠組みはこの公演の価値になるのではないか。

◾️具体的方法
・集合場所、集合時間を決める。MCが企画概要を説明する。
・何か試練がある。
・避難所にたどり着く。クリア。

”仕掛け案”
・誰かorどちらかを助けなければならない。(しかし、それを実行すると自分の命が危険になる。)
道端に人が倒れている。助けていると、ゾンビがやってくる。
・何かを入手しなければならない。(しかし、それを実行すると自分の命が危険になる。しかし、それを入手すると「集団」に恩恵がある。)
・誰かと戦わなければならない。(全ての人が優しいわけではない。)
なんとか得た水を奪おうとする悪い奴らが現れる。武器、「スタンガン」「対話」。
・協力しなければならない。(しかし、それは個人で生き延びた方がいいように見えてしまう。)みんなで倒れた木を動かして人を助ける。しかし、津波はそこまで来てしまっている。

◾️具体的方法案
・親子で参加。
→自分の子どもでは無い親と子をペアにする。(そうすることによっていい緊張感と道中の対話が生まれる)他者と接する機会。
・演者は基本役者が良い。
→役者の社会的意義の認知を向上させるため、そこにこだわってみるのは面白い。
・県や町を巻き込んで行う。

◾️派生案
・ボスを倒しに行く。という公演。
→校長先生と結託し、先生にボス戦を提供する。(基本的姿勢としてアナーキズムを社会に受容させる枠組みで行う。)
→社長が仕掛け人で社員に「ボス」を提供してもいいかもしれない。「エンタメ」と「アート」として成立していないと意味がない。「エンタメ」は「ワクワク」、「アート」は「葛藤」と「自分と向き合う」という側面のこと。

毎日がボス戦である、という認識に行けたら最高。その問いの前に自分の生き方と向き合う機会を提供するのが本枠組みの一番の目的。つまらん人生、つまらん毎日をどう捉える。どういうストーリーにする。てるりんは気づいてしまった、英検一級がボス戦でも何でもなかったことを。

【ボス戦とは何か】
ボス戦、を抽象化してみる。なぜ僕たちは子どもの頃(大人の今になっても)あれほど、RPGにのめり込んだのかそれは子どもの「リアルとフィクションの境界線が曖昧」ということと関係しているかもしれない。ゲームの中で起きていることを現実の世界と混同することができる、ということだ。さらわれた姫を救う、というその単純なストーリーに少年たちは「これはゲームだから」とシニカルになることができない。だからスライムを倒し、ムドーを倒し、姫を救う。そこに自分の存在意義と成長を体験するからだ。擬似的にではない、子どもたちは本当に「体験」しているのだと思う。
つまり、ボス戦とは「自分にしかできないこと」と、それを達成するために「成長しなければならない」という二つの要請が伴っている事象のことをいう。それだけでいい、この世には我々にしかできないことがあり、そのために我々は成長しなければならないのだ。