今週のシャララ

映画は観客との関係性を無視して作品を作ることはありえない。

ここ最近、22日の住田町での上映に向けて急ピッチで編集を進めている。編集といっても僕のやることは、すごい手腕で滝さん(滝さんについてはこちら)が編集したものを「ここ二秒短い方がいいです。」「ここで音消して〜」と、こうしてくださいとディレクションするなんだけど。

今日もお昼から編集していたのだけれど、そこであるシーンの長さと、音について議論になった。僕はこれだと長過ぎるから短くしてほしい、音も、音楽があったほうがいい、と言ったのだけれど、リオン(リオンについてはこちら)は

「音楽はない方がいい」

と言った。その理由が今回の作品を成立させるためには音楽があっては無理だ、というものだった。

この時に、作品のための議論が行われた。それは作品の本質を巡るものであり、芸術とは何かを巡るものであり、時間とは何かを巡るものだった。そして、観客とは何か、を考えた。(と言ってもあの場に居なかった人からすると、「は?なのんこと?」なんだけれど)

僕はめちゃめちゃ興奮した。なぜならついき、「観客の見やすさ」がおもしろさに直結するところを越えて、観客には伝わるか分からないけど、こっちの方がおもしろいやん!という議論に行きついたからだ。

映画や演劇をつくっていくなかで、映画や演劇持つ、の芸術の特徴について最近考えを巡らせている。映画や演劇は音楽、絵、小説と違って決して一人では作れない芸術ジャンルだ。それは説得の回数の違いから来ていると僕は考えている。音楽や絵、小説は一人で作って完結、という状況があり得る。誰にも読むことを想定せずに書いた詩をノートに書いている人って意外にいる。僕もその一人、というのはどうでもよかった。でも、誰にも観られることを想定せずに作られる映画や演劇は、ありえない。演劇を上演しようと思うと、まず演出家は、俳優たちを説得させなければならないし、どのような表現をしてもらうのか、説得しなければならない。公演を続けたければ観客を説得しなければならない。この説得回数の多さが、演劇や映画の作品作りの特徴だ。そして、その説得の多さが映画や演劇をすることのおもしろさだと思うようになった。

冒頭に

「映画は観客との関係性を無視して作品を作ることはありえない。」

と書いた。

僕たちは今日の編集で、このおもしろさに出会うことができた。嬉しさのあまりに、そのことをこうしてこの場所に書き記す。(伝わって欲しいなぁ。)

上映会まであと3日。

今日も最後まで読んでくれてあとんす。

ある夏のできごと

映画、完成しました!
今回、伯楽 -hakuraku- を立ち上げるきっかけになった映画です。

岩手県の住田町という町で5日間、9人で撮影を行いました。
撮影の経緯、裏話などは今後、記事にしていくのでとりあえずはビジュアルをご笑覧あれ!

 

あらすじ
震災で両親を亡くし、ゲストハウスを営む村井の元で暮らすあさみは、来ては帰ってしまうボランティアの人たちに不信感を持っていた。そんな時、地元のお姉さんのゆみが、ボランティアの男性と結婚し、東京に行くと言う。それを受け入れられないあさみ。だが、バックパッカーのポーターやラジオDJのマックスとの交流の中で心境に変化の兆しが訪れる。