脚本の現フォーマットにおける問題点

 

脚本の現フォーマットにおける問題点

今週のシャララが今日のシャララになりつつあります。どうも伯楽 -hakuraku-言い出しっぺ仁田です。全然関係ないんですけど、僕、「代表」とか「主宰」と自己紹介するのに抵抗あるんですね。多分、まだ法人でもなくてただの仲間の集まりに近い何かで、ちゃんとした「システム」みたいなものを持ってないんですよ。運営の仕方がかなり遊びに近くて「やりたいことはしない」というのが基本スタンスで僕がやっているので、「言い出しっぺ」がかなりしっくりきてます。

これからもっと本格的に、「仕事」のイメージを明確にしていきたいと考えています。どうすれば小さな経済を生むことができるか、最近はそればっかり考えています。映画を作る、ってお金がかかるけど、自主映画は儲からない。「カメラを止めるな」みたいな稀有な事例もありますが、基本的には儲かりません。国から助成金をもらって、やっとトントン、みたいな感じやと思います。あんまり知らないんでそこの勉強もして行かな、とは思うんですけど、それよりもまずは「作る」にフォーカスが向いてます。

1月頃に第三弾の映画を撮る予定です。ついに三作目の制作に入りました。奈良でみんなで夜遅くまで、あーでもない、こーでもないと言いながら、脱線してゲラゲラ笑ってる時に「始まったぜぇぇえ!」って感じがして、バイブスが高まりました。

で、今回も前回と同じメンバーで撮るんですけども、同じメンツで企画・脚本から練って行く、っていうのはめちゃくちゃ楽しいし、強い。共通言語がすでに出来上がっていて、話を進むのが早いというのと、抽象度の高い難しい話になっても、一緒に議論の深みに降りていける。これが同じチームで作ることの強さやと改めて思いました。

なんば青年(『ワクラバ』の監督)は
「脚本の現フォーマットは変えたほうがいい」
とか意味わからんこと言い出す人なんですよ。真っ当な問いではあるんすけど、そこに真剣に向き合う人、なかなか居ないように思います。
で、彼曰く、今の脚本のフォーマットには2つの問題があるらしいです。

a. 現フォーマットでは俳優の台詞と動作が平等に扱われていない。

b. 現フォーマットでは、会話を「キャッチボールである」という間違った前提によって話が進む。

というのが問題らしいです。
これによって脚本を書く時、次にくる台詞が変わってしまう、というのがなんば青年の主張です。ちょっと複雑な話なので詳しく書きます。

a. 現フォーマットでは俳優の台詞と動作が平等に扱われていない
現フォーマットで、俳優の動きを脚本に組み込む場合、ト書きに書くか台詞に()をつけて書くことになります。そのフォーマットの中で動作と台詞を平等に扱って書くと、ト書きが長くなってしまい脚本自体が至極読み辛いものになってしまいます。
本来、発話が行われる際、基本的に発話の主体は何かの動作を行っています。それを脚本側を想定して書くことが難しい、ということです。
僕はこの話をなんば青年からされた時、「俳優の動作」は、脚本家ではなく俳優がクリエイションする領域ではないか、と反論しました。彼は「脚本家が俳優の身体性、つまり動作を想定するかしないかで台詞が変わってしまう、だから脚本の領域だ。」とさらに反論しました。
「でも、」
と続ける僕に
「脚本に書かれている動作と違うことをしたとしても、むしろ俳優が成立させるのが見たい」
となんば青年は追い討ちをかけました。
ぐぅの音も出ませんでした。脚本に書かれたことを忠実に再現することだけが俳優の仕事ではない。脚本に独自の解釈を与え、脚本の本質を損なわない形で表現を成立させることが俳優の役割なのだと思います。

身体性をもっと意識することによって、台詞は変わる。だから動作を記述することは脚本家の役割である、という話でした。脚本家が書いたものを監督が演出し、俳優が演じる、この一連の中で様々な問題が起きるのですが、一番の問題は身体性が無視された台詞を、演出で無理矢理乗り越えようとする時に起きると思います。そもそもの台詞が悪いのに、シーンを作ってみると何か違う。それを演出家は俳優の演技に原因を帰結する。という悪循環はあらゆる現場で今日も行われていると思います。

b. 現フォーマットでは、会話を「キャッチボールである」という間違った前提によって話が進む。
これは「会話とは何か」というさらに入り組んだ話になります。会話はキャッチボールに例えられることが多いです。一つのボールを相手に投げて、受け取ったボールを投げ返す。これはある程度の会話の説明がなされていると感じるかもしれませんが、なんば青年はそれを退けます。会話は壁当てらしいのです。
会話とはそれぞれの話者が違ったボールを「同じ方向に」投げている、というのが彼の会話の定義です。仮に二人の話者が一つの議論をしていたとして、Xの意見を言う、それを聞いた別の人がYの意見を言う、この時点でX,Yと言う別のボールが登場しているじゃないか、と言うことです。つまりなんば青年の話では議題という壁に向かって、それぞれがボールを投げていると言うことです。それが時折交わり、XがX’に変容することもある、というのがなんば青年における会話の定義です。
今の脚本のフォーマットでは、一人の発話が終わってから、もう一人の発話が始まらなければなりません。この構造が会話はキャッチボールである、と言う間違った前提を書き手にアフォードしているのです。もう一つ彼の指摘を加えると、そもそも人間は、あらゆる言葉を重ねながら会話をしています。誰かが何かを言い終えてから、話始めるのではなく、その人が何かを言い終える前にこちらが何かを言い始める。むしろそういう場合の方が多いんでない?と言うのが彼の指摘です。
なんか、説明できたのかできてないのか僕もわかりませんが、とにかく会話とはキャッチボールではなく「壁当てである」ということだけは伝わりましたかね。

では、これらの問題を解決するフォーマットは何か。楽譜です。
登場人物の数だけ楽譜のように段を分ける。そして、その一つの段も二つに分け、「動作」と「台詞」の段に分ける。そうすることによって、台詞と動作を平等に扱うことができ、「会話はキャッチボールである」という誤謬を持たなくて済む。というのが彼の仮説です。

次回の映画は、この新しいフォーマットを元に脚本を書いているそうです。なんかよくわからんけどめちゃくちゃワクワクしません?

ちなみにこの「現フォーマットに対する疑問」は『ワクラバ』の制作の時からなんば青年は話していました。ワクラバが完パケしたあとに、ワクラバの台詞を全て文字起こししたなんば青年は、「現フォーマットでは適切に記述できねぇ」とさらに問題意識をつのらせます。

なぜ映画が完成した後に、台詞を起こしたかと言うと、『ワクラバ』のほぼ全ての台詞が俳優のデザインされたアドリブによって構成されているからです。対話は被りまくりだし、テイクごとに違うことを言うし(主旨は同じ内容)、とにかくとっちらかった俳優の対話を、血反吐を吐きながら、なんば青年とカメラマンの滝さんと共演したリオン君が編集しました。僕はひたすら塾の先生の仕事をしていました。

神業でなんとか約87分の作品に仕上げました。すごすぎる。だからこそ、TAMA NEW WAVEの審査員の方に「TENETよりも面白い」と言わしめたのだと思います。映画制作に携わったことがある人は、この映画がどのように作られたのか、脚本がどうだったのか、演出がどうだったのか、俳優は何を意識して演技をしているのか、多分全く想像することができないと思います。なのに、成立している。そのことに驚くと思います。細い糸かもしれませんが、しっかりと繋がったその糸に驚くと思います。

具体的にどのような方法で脚本なしで映画を作っていったのか。その話はまたの機会に書こうと思います。

『ワクラバ』面白いです。ぜひ観に来て欲しいです。
11/22(日) 16 : 50~
ベルブホールにて上映です。(地図は「ベルブホール」をクリック)
入場料金 : 1000円
チケットの申し込みはこちらからできます。

ではでは、また明日ここでお会いしましょう。